インタヴュー

細川俊夫、音楽を語る

聞き手:林田直樹 (OTTAVA amoroso for weekend 2012年10月28日放送分)


林田 細川さんは作品を書かれる時に、ご自身が日本の作曲家であるということを、どのくらい意識されているのか、ということをまずお伺いしたいと思います。例えば、チャイコフスキーやムソルグスキーであれば自分はロシアの作曲家である、あるいはドビュッシーやサン=サーンスも自分はフランスの作曲家である、というようなことを、おそらく彼らはそれなりに意識したんじゃないかなという気がしています。現在のこの国際的な時代では、そう考えるのはなかなか難しいかも知れないのですが、細川さんの音楽の中に「日本」というものはどのくらい意識されているのでしょうか?

細川 100パーセント意識していますね。100パーセントというのは、自分がどこから来たのか、どこに立っていて、どこに行くのか、ということを僕は常に考えているということです。

 どこから来たのか、というのはもちろん日本になるわけですが、日本には西洋音楽の伝統がすでに150年近くあって、今では非常に豊かな西洋音楽の世界が私たちの周りに存在しているとは思いますが、その前提として明治より前の時代、雅楽や能、尺八をはじめとする江戸時代のさまざまな音楽など、日本古来の伝統的な音楽もとても重要で、そこからの連なりとして、つまり明治以降に西洋と出会った後の日本人として作曲をしたい、と思っています。

 だから世阿弥も近松門左衛門も、僕にとっては皆ルーツです。その上で、日本の作曲家、特に武満徹さんの音楽思想というものを学びつつ、この一連の流れの中に立って作曲しているつもりです。

 それと同時に、明治時代の日本人のように、今を生きる中で西洋と出会う、ということがとても大事だと考えています。僕の作曲活動の中でも、現在の西洋の、本当の意味でアクチュアルな作曲家たちとのかかわり合いを、とても大切に考えています。

 しかし、どこから来たかと言われれば僕の場合はやはり、日本というものが非常に大事な出発点になってきますね。

林田 そうすると、じゃあそもそも日本って何だろう、日本の音楽って何だろう、という問いが、避けがたいものとして浮かんでくると思うんですね。さらにもう一つの問い、日本の伝統楽器を使いさえすれば、果たしてそれは日本の音楽なのか、あるいは、日本の音楽なのに、なぜヨーロッパ起源であるオーケストラを使うのか、という疑問にもつながってくると思うんですね。

 これらは以前、PMFで細川さんが、若い作曲の学生達に問いかけられていらっしゃったことと、おそらく同じ質問になるかと思うのですが、どうお考えでしょうか。

細川 日本はとても多様で、さまざまな時代にいろいろ外国の影響を受けてますよね、古くは中国や韓国から、そして明治以降は西洋やアメリカからも。でも、その中でも時代にかかわらずひとつ貫いている日本的な美学というものは、絶対に存在すると思うんですね。それを、僕なりの把握でもって、自分の中にある日本的な音楽の美学みたいなもの、音楽の思想みたいなものを背景にして、これまで創作活動を続けてきたわけです。

 僕の作品ではしばしば、「書」について意識することが多いですね。例えば、このナクソスのCD(http://ml.naxos.jp/album/8.572479)だと、どの作品も毛筆の線を意識して書かれていますが、このことは例えば、声明で声のラインが毛筆で描かれた曲線の様に聞こえるとか、雅楽の龍笛とか篳篥のメロディのラインが、これも毛筆の線のような動きをしているということなどと同じだと思います。それに、毛筆の線というのはさまざまなヴァリエーションができるんですね。細い毛筆で薄く優しいエレガントなラインを描く事もできるし、太い毛筆で大きな強い線を描く事もできる。

 それから、書では、書かれていない空間というのがとても大事で、これを意識せずにただ単に線を書いただけでは、線自体が生きてこないんですね。同じように音楽も、音がない空間、つまり「間」があるからこそ、音が生きてくる。そういう考え方は雅楽にも、能にも、尺八や箏の音楽にもあると思いますが、それを僕も、自分の音楽の中心的なアイデアとしているわけです。

 あと、毛筆ってのはたくさんの毛がまとまったものでしょう。しかも、曲線を描く時には、1本1本の動きを計算できないですよね。ヨーロッパの鉛筆やペンだと、細くてコントロールされた線が描けるわけですけれども、毛筆の場合は、毛の動きそのものが偶然にゆだねられる部分が多いし、時々書き手の筆の運びが飛んでいくような動きになることもありますよね。

 具体的には、器楽曲ではたくさんの装飾音やヴィブラートを使ったりして、これを応用するわけですけれども、一方オーケストラでは、弦楽器奏者がさまざまな音を出して、各々が微妙に異なっているけれども一緒に運動する、揺れながら動くということをやりながら、弦楽器とは性格の違う木管群や金管群が時間をずらしてそれを模倣していったり、長い休符で大きな間をあけ、空間に点を打つようにボーンと大きな音を鳴らす、などでしょうか。こういった、書のイメージで作曲しています。

林田 なるほど。

細川 それでよく、例えばフルート作品を聴いた人から、どうして尺八を使わないのか、と質問を受けることがあります。

林田 確かに、尺八に似た音が聞こえますものね。

細川 だけど、尺八では絶対、この僕のやりたい表現ができないんですね。フルートの方が、いろんな事ができて多様性があるんです。

林田 そうなんですか。

細川 フルートの方がはるかに音域が広いですよね。僕は尺八をやるつもりはない、しかしヨーロッパのフルートの音楽を書くつもりもやっぱりなくて、どちらでもない新しい楽器を作りたいんですね、自分の楽器を。それはフルートでもあり、尺八でもある。いわば、新型の「スーパー・インストゥルメント」なんですね。

林田 それはつまり、完全に新しい楽器であっても良いわけですね。

細川 そうです。でも、今は素晴らしいフルート奏者がたくさんいて、彼らは新しい奏法を次々と編み出すので、とても可能性が広いんです。だから僕は、新しい楽器を作るよりも、今あるフルートで、さまざまな新しい奏法を駆使しながら自分の音楽を作っていく。だから僕はフルートを日本化するというか、自分化するわけですね、自分の楽器として作り上げていくことに興味があるんですね。

林田 うーん。

細川 オーケストラも全く同じで、例えば、古代の日本のオーケストラとも言える、雅楽のアンサンブルでは、すっかり完成された古典作品の演奏が中心であることもあって、とても制約があり、あまり新しいことができないんですね。それに比べると、西洋のオーケストラっていうのはまだまだ可能性が残されていて、先ほど申し上げた、毛筆の線とか、空間を意識するというような時に、豊かなパレットを僕に提供してくれるんです。

林田 なるほど。今、オーケストラに可能性があるとおっしゃいましたが、それはすなわちクラシック音楽にはまだ可能性があるということとほぼ等しいですよね?

細川 ヨーロッパ的な、非常に知的な音の構築としての音楽は、もうやり尽くされてしまったかも知れないですね。でも、違った視点からオーケストラを見つめると、もっとたくさんの可能性があるような気がしています。

林田 そこで一つお伺いしたいんですけど、「形式」については、どう思われますでしょうか? ヨーロッパのクラシック音楽だと、例えば器楽曲だと、ソナタ形式という偉大なものや、あるいは変奏曲形式というものがありますよね。その形式を把握することで音楽自体を把握できるということがあると思いますが、細川さんは、例えばソナタ形式とか変奏曲形式とか、そういったものをご自身の作品の中にある程度取り入れてらっしゃるのか、そういうものとはむしろ距離を置かれているのか、その辺はいかがでしょうか?

細川 ソナタ形式というのはやはり、A-B-Aという、最初に主題があって、それを展開して違ったものにして、それから主題に還ってくるという流れがあると思いますが、それはとてもヨーロッパ的な考え方だと思うんです。でも、僕たち日本人が持っている音楽の時間のとらえ方はちょっと違っていて、1つのところで、発展ではなくて変容する、どんどん変化してくるものだと思うんですよ。時間のとらえ方ひとつをとっても、われわれ日本人は時間に、つまり、時の流れとか、移りゆきとかいうものにとても敏感で、四季の移り変わりというような、その微妙な変化をヨーロッパ人には分からないくらい感じられるじゃないですか。まだ夏なのに秋の風を感じたりね。そういう微妙な時間の移りゆきというものに、とても日本的な美学を感じると思うんです。

 僕の音楽には、そういった意味での時間の推移の感覚、提示された1つのものが微妙に変化していくというフォルムがあると思います。これは一種の「変奏曲形式」とも言えるかもしれませんが、瞬間瞬間を聴いてそれがどう微妙に変化していくか、そういう移ろい、変容していくような音楽を作っていきたいですね。

林田 今の言葉を聞いたリスナーの皆さん、とっても細川さんの音楽に親近感を持たれたんじゃないかと思います。

 もう一つ質問を。ヨーロッパの音楽の場合、やっぱりキリスト教っていうのがとても大きな問題としてあると思うんですね。日本人は宗教とは距離がある、という人が多いかもしれませんが、やっぱり何か根底には、仏教や、あるいはそれぞれの人にとっての宗教というものがあると思うのですが、細川さんの場合は宗教的なこと音楽の関係についてはどうお考えですか? 音楽の場合、宗教とは深い関係にあるケースが多いと思うんですが。

細川 僕の場合も宗教的な音楽を作りたいですね。若い頃にはキリスト教的なものにとても惹かれて、レクイエムの形で書いたこともありますが、今は、仏教的な世界観と言いますか、無常観と言いますか、仏教についていろいろと勉強をしています。

 これは、例えばこんな風に言えば分かりやすいかもしれません。キリスト教的な音楽では、例えばバッハにしてもブルックナーにしても、音の建築なんですね。そこには永遠の神が住んでいて、永遠の光が射すような、大きな音の構築物を作ろうとしている。しかし僕の場合は、音は生まれても消えていくんですね。それは、先ほどお話した書についてもそうですけど、1つの線が生まれたら消えていく、消滅する美しさというのがあると思います。それは、無常観かもしれないし、はかなさに裏打ちされているものかも知れませんけど、音というのは、生まれたら、心の中には残るけれども、すぐに消えることは間違いないわけで、音で建築を作るのではなく、音は何かを表現するんだけれども消えていくということ、その美しさを表現したいなと思うんですね。

 音ってすごく力がある表現だとは思いますが、キリスト教的な神が住むところではなく、消えていくものの美しさ、生まれては消え、また生まれては消えていく、その生成の過程と死んでいく過程、それを聴いていくことが大事だと僕は思うんです。それは結局、仏教的な無常観のようなものにつながっていくのかな、というようにも思います。

林田 ありがとうございます。さらにもう一つ、これは絶対にお伺いしなきゃと思ったことなんですが、それは日本語の問題なんですね。日本について考える時に、日本語をどう捉えるか、というのはとっても大事なことで、例えば日本語による歌曲、あるいは日本語によるオペラをどうやって書くか、ということが、すごく大きなテーマだと思うんです。でも細川さんの作品では、必ずしも常に日本語をテクストとして使われているわけではないじゃないですか。日本語と細川さんの音楽との関係ということに対して、どの様に考えていらっしゃいますか?

細川 僕もいつかは日本語でね、オペラを作りたいと思っていますが… なかなか、難しいですね。それは現代の口語の日本語というのは、僕には音楽にするのに非常に難しいんですね。

 これまでオペラは3つ書いていますが、2つは英語で1つがドイツ語です。しかし歌曲では、日本語のものはありますよ。《恋歌(れんか)》というタイトルのソプラノとギターのための曲がそうですが、ただ、万葉集とか古今集といった古い日本語を使っています。昔の言葉っていうのは、音楽にするのにとてもやりやすいんです。凝縮されてますし、ひとつひとつの言葉に深い意味がありますしね。これが、現代の日本語になると、長いんですよ、すごく難しくて。でも、いつかやりたいと思っています。

林田 三島由紀夫の華麗な文体ですら、結局、音楽にするには難しかった、ということでしょうか?

細川 三島由紀夫はね、台詞がすごく長いんですよ(笑)。作品自体は素晴らしいんですけど。

林田 読んでると惚れ惚れとするんですけどね。

細川 しゃべるにもね。台詞としては素晴らしい。それを音楽にするのはね… とても説明が多くて、言葉ですべてを語ろうとするでしょ。すごく難しいんです。英語だと比較的やりやすかったですね。

林田 私は日本語の話者として、日本語で物を考え、日本語を愛する人間のひとりとしては、やっぱり細川さんにぜひ、日本語による素晴らしいオペラを書いていただけたら、どんなにいいだろう、っていうことをいつも考えています。《班女》や《松風》があれほど素晴らしいオペラであるだけに、とても楽しみにしています。

 最後に一つお願いがあります。OTTAVAを聴いて下さっている方たちは、日頃はやっぱりベートーヴェンとか、ショパンとか、そういうクラシックな音楽に親しんでいる方が多いと思うんですね。私もなるべく20世紀の曲、21世紀の曲も、古典音楽と同様に番組の中で紹介するようにはしているのですが、それでもやっぱり、現代音楽をかけると、ちょっと難しいとか、やっぱりきれいなメロディがある音楽の方が聴きやすいとか、4拍子のソナタ形式の方がいいとか、っておっしゃる方もいらっしゃるんです。そこで、細川さんからリスナーの皆さんに、そういういわゆる「現代音楽」について、何かもうちょっと近しく感じ取れるようなヒントというか、ガイドというか、どういう聴き方をしたら、いつもメロディアスなロマンティックな音楽を聴いている人たちが、現代音楽を近くに感じられることができるか、そのヒントをいただけたら嬉しいのですが。

細川 例えばベートーヴェンをお聴きになる時に、ベートーヴェンの時代背景とか歴史的背景とか、ベートーヴェンが生きていた時代のコンテクストを想像されて、ベートーヴェンがその時代にいかに新しかったか、ということを思い描いてみてはいかがでしょうか。ショパンが生きていた時代に、ショパンの音楽もやっぱり新しい部分があるわけで、それは同時代の人たちにはショックであったと思います。今はそれがノスタルジックな、耳なじみのよい音楽になっていますけど、よく聴けば、とても新しいものがあるのがお分かりになると思います。

それと同じように、私たちのような今を生きている作曲家というのは、伝統を背負いつつ今の時代にタッチする、現代の人間の魂にタッチできるような音楽を作ろうとしているんです。決して新奇さや、もの珍しさだけで音楽を作ろうとしているわけではありません。今の時代、ノイズに満ちた激動の時代で、国際的な摩擦とか衝突が毎日あるわけじゃないですか。きっとベートーヴェンの時代にもあったのでしょうが、今はもっと情報も複雑ですしね。そういう時代に生きて、ベートーヴェンやショパンやシューマンでは表現できなかったような、今を生きていることの喜びや悲しみや辛さや、そういったものが今の作曲家の中にはみんなあると思うんですね。それを聴いていただきたいと思います。

林田 つまり、「現代音楽」っていう言い方も抵抗があるんですけれども、現代の作曲家たち、今を生きている作曲家たちが書いている作品というのは、専門的な知識や経験がなければ届かないようなものではないということですね。

細川 そうですね、そんなことはないですね。ただ、今を生きているということがある、そして、歴史というものがあってどんどん変化していく。もし僕が、今から20年30年前の素晴らしい作曲家の様式を模倣して音楽を書いたら、それはもう、今を生きているものにはならないんです。ひとりひとりが自分の道を、自分の響きというものを作っていかなきゃいけない。それには作曲家ごとに違う伝統があるわけですね。クセナキスにはクセナキスの伝統があり、リゲティにはリゲティの伝統がある。みんな、現代に参加するために新しい語法を求めているわけです。もちろん、僕も同じです。響きをしっかり聴いていただけたら、過去の音楽では絶対に体験できなかった喜びを感じていただけると信じています。

(2012年10月24日、Ottava スタジオにて収録)

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