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細川俊夫 オペラ《班女》日本初演

2009年 7月28日付

細川俊夫のオペラ《班女》が、8月21, 23, 26日、サントリーホールで日本初演される。《班女》は、2004年にエクサンプロヴァンス音楽祭で初演されて以来現在までにヨーロッパ各地の歌劇場で29回上演され、大きな成功を収めてきた。三島由紀夫の原作『班女』の持つ魅力を存分に引き出したオペラ《班女》について、ベルギーのラ・リーブル(La Libre)紙は「驚くほど旋律的に洗練された、テクストを明確に聞き取ることができる声の旋律線」と評し、同じベルギーのル・ソワール(Le Soir)紙は「…光沢とざわめきに満ち、透明な動きと押し殺した引き裂かれる悲しみに満ちた、絹のように織られた楽曲(中略)。20人ほどの小オーケストラから生じる非常に洗練された音楽が、柔らかくアラベスクのように歌の旋律のひだを繊細に包んでいる」と絶賛した。
 世界初演後、再演の機会が与えられないオペラも珍しくないが、《班女》は2004年の初演以降、新演出も含めてヨーロッパを中心にほぼ毎年再演され続けている。細川俊夫という作曲家に向けられた関心がいかに高いか、また《班女》がオペラとしていかに優れているかということを如実に物語っている事実と言えるだろう。既にオペラのレパートリーとして定着した感のある《班女》、世界初演から5年を経てようやく実現した今回の日本初演に、大きな期待と注目が集まっている。
 なお、今回日本で制作される《班女》は、9月にイタリアで行われる「ミラノ・トリノ9月音楽祭」でも同じ指揮者、歌手により14日(トリノ)と15日(ミラノ)の2度上演される。

【公演の詳細】
サマーフェスティバル2009(サントリー音楽財団主催)
第39回サントリー音楽賞受賞記念公演
サントリーホール(東京)
細川俊夫 
オペラ《班女》
ルカ・ヴェジェッティ(演出・衣裳)
半田美和子(花子=ソプラノ) フレドリカ・ブリレンブルク(実子=メゾソプラノ) 小森輝彦(吉雄=バリトン) 
東京シンフォニエッタ 
ヨハネス・デビュス指揮

サマーフェスティバル2009(サントリー音楽財団のウェブサイト)
http://www.suntory.co.jp/culture/smf/summer/index.html

ミラノ・トリノ9月音楽祭
http://www.mitosettembremusica.it/en/

●物語の背景……遊女花子は吉雄と契りを結び、別れ際に、再会を誓って扇を交換したが、吉雄が花子の前に姿を現すことはなかった。画家の老嬢実子は狂女となった花子を落籍して自宅で囲っている。

●オペラのあらすじ……くる日もくる日も、扇を手に、花子が吉雄を駅で待っている。その奇行が新聞沙汰となる。老嬢実子が花子を自宅で囲っているということまで暴露されている。記事を読んだ実子はいままでの苦労が無駄になったと絶望する。吉雄が花子の噂を聞きつけ、遠からず会いにくるだろうと予期した実子は、花子を世間から遠ざけるため旅に出ようと誘うが、花子は聞く耳をもたない。実子はもう吉雄を待たなくてもいいと言い含めようとするが、花子はいつまでもここで待つといってきかない。吉雄が、扇をもって実子の家を訪れる。実子は吉雄を花子に会わせようとしない。しかし、実子の懸命の妨害にもかかわらず吉雄は強引に花子のいる寝室に向かい、二人はついに再会する。が、花子はその男は吉雄ではない、という。


●作曲者によるオペラ《班女》解説
 この作品は、エクサンプロヴァンス音楽祭の委嘱で2003年秋から2004年のはじめにかけて作曲した、私の第2作目のオペラである。初演を指揮した大野和士に、捧げられている。彼の新しいオペラへの情熱と励ましなしには、この作品は生まれなかった。
 私の作曲する新しいオペラは、西洋人が生み出すオペラとは異なって、日本の伝統演劇である能につながるものでありたいと願っている。それと同時に、能の持っている限界のある表現能力を超えて、現代人の心にも響くオペラでもあってほしい。そのためには、私は西洋音楽のオペラの伝統を知り、そこから多くのものを学び取ることが必要であったと同時に、日本の「能」についての勉強をしていくことも必要であった。
 《班女》は能にオリジナルの台本があり、私が用いたテクストは、その能のオリジナルを三島由紀夫が新しく書きなおした彼の「近代能楽集」の『班女』を、ドナルド・キーンが英語訳したものを基礎としている。三島の創作もまた、私と同じように、日本の伝統を踏まえながら、その限界を超えて、西洋演劇の伝統から学んだ方法を生かしつつ、古い題材を現代に生かしていくことであった。
能は十四世紀から十五世紀にかけて生まれた日本独自の歌舞劇(オペラ)である。言葉、音楽、歌唱、歌手の所作(演技と舞い)等が一つの強い様式によって統一されている。能は、ほとんどの場合、死者や狂女といった、異界に存在する登場人物が主役となり、それがこの現実に降りてきて、現実に生きている人たちと対話し、魂の救済を求めるドラマである。それは非現実で、夢のようなドラマである。
私はオペラ《班女》を、ひとつの「夢」のように捉えて作曲した。主人公の狂女、花子は狂気といういわば日常を超えた世界のなかを生きている。そして愛する男を長く待つ。その男はやってくるが、彼女にとっては、その男は、もはや自分の愛する男ではない。彼女の心の中では、非現実の男の姿がより強いリアリティーに変化してしまったのだ。
そのような、夢と現実、狂気と正気の境界線を往還するドラマを、私は音楽で描きたかった。人は夢の領域でしか聴くことの出来ない声を、演劇ではなく、音楽のなかでより深く聴くことが出来るだろう。私はそうした夢と現実との往還する人物の声を、絵巻物のように、緩やかに変容するオーケストラを背景に描こうとした。その絵巻物には、次第に強く沈黙が織り込まれてくる(絵巻物で言えば、余白がその絵のなかに織り込まれてくるように)。夢や狂気はあるときには、強いリアリティーをもつ。そしてそのリアリティーは私たちの生きる魂の真実をも、強く描き出すことが出来るかも知れない。
音楽には、能で使われている楽器も、能の歌唱法も、全く使わなかった。私は日本の伝統音楽の外形を写し取り、それを現代風に編曲するようなエキゾティックな(異国趣味的な)音楽は創りたくない。むしろ私は、能の音楽の持っている本質を、全く異なった形で新しくよみがえらせたい。それは沈黙(日本語ではこの沈黙を「間」ともいう)を生成する音楽である。そして音は、沈黙との境界線を緩やかに旋回しながら、夢の領域へ旅する。
歌手の歌は、日本の書(カリグラフィー)のような形態を持つ。その書のラインは、ある時は優雅に、またある時は極めて強い主情的な力をもって描かれる。そのラインの奥底にそれぞれの登場人物の、日常では聴こえてこない深い声(魂の声)が隠されている。
今回の日本公演では、初演以来初めてとなる日本人歌手、花子役の半田美和子(ソプラノ)、吉雄役の小森輝彦(バリトン)の他、昨年リヨン国立オペラで《班女》の指揮をした若い指揮者、ヨハネス・デビュス、初演以来、すでに何度も実子役を歌っているフレドリカ・ブリレンブルク(メゾソプラノ)、ハンブルクでのコンサート版を演出したコンテンポラリー・ダンスの振付家、ルカ・ヴェジェッティというメンバーも加わった新しいプロダクションである。